2021 年 04 月 15 日
地方での新しい働き方を支えるセキュアなコワーキング施設の実現
~ Ruby の街に情報セキュリティという付加価値を加える松江市のチャレンジ ~
IT に造詣の深い地方自治体として、名前が上がる都市の1つに島根県松江市がある。オープンソースソフトウェア(OSS)に親しみを持つ人ならば、松江といえばオブジェクト指向スクリプト言語の「Ruby」との関わりが深いことを知っているだろう。そんな松江市はサテライトオフィスの推進や、最近ではテレワークや、仕事とバケーションを組み合わせたワーケーションと呼ばれる地域型テレワークへの取り組みを進めている。テレワークの推進に欠かせない情報セキュリティへの対策も進めているところだ。
企業誘致と「お試しサテライトオフィス」の挑戦
松江市が IT を軸にした産業振興を手掛けるようになったのは今から 15 年ほど前のこと。2005 年の国勢調査のタイミングで初めて市の人口が減少に転じたことがきっかけだった。人口減少対策を施さないと過疎の街へと歩みを進めてしまう。そうした中で、若者にも魅力的な職場を市内に設けていく施策を検討した。
松江市で定住企業立地推進課の副主任を務める土江健二氏は、「製造業を誘致するといっても、補助金合戦では大きな都市に負けてしまいます。そこで着目したのが Ruby を開発した、まつもとゆきひろ氏の存在でした。松江市在住ということで市の担当者がお目にかかり、まつもと氏のご協力のもと、2006 年に Ruby City MATSUE プロジェクトが立ち上がりました。プロジェクトは約 15 年をかけて徐々に浸透し、サテライトオフィスの誘致の成果として現在までに約 40 社に都市部から来てもらうことになりました」と語る。
そうした企業誘致の一貫として 2017 年には、総務省の「お試しサテライトオフィス」モデル事業の採択を受けて取り組むことになった。サテライトオフィスを受け入れる側の自治体のノウハウを、モデル事業の運営から吸収しようというものだ。「Ruby City MATSUE プロジェクトで、Ruby をやるなら松江というイメージは高まり、企業誘致で一定の成果は得られました。一方で、開発拠点を設けてもらっている企業だけでなく、幅広い雇用の受け皿という観点では、松江発のサービス作りや地元企業との連携による新しい取り組みを行う企業にも来ていただくためのきっかけが必要です。そのきっかけづくりとして、お試しサテライトオフィスは必要な施策でした」(土江氏)。
お試しサテライトオフィスのモデル事業では、オフィスの提供はもちろん、参加者の松江市までの交通費などを松江市が負担する。宿泊費と滞在費さえ払えば、参加企業はお試しサテライトオフィスを体験できる。松江市では、単に黙々と仕事するサテライトオフィスではなく、地域との交流のためのアクティビティも設けた。小学生と交流して地元を PR する Web サイトを作るといったアクティビティにより、松江市を好きになってもらい、後の企業誘致や地元企業との連携につなげようとしたのだ。こうした取り組みは、「テレワーク推進、短期滞在による地域型テレワーク推進という旗印はありますが、そうした声を上げる前にまず来ていただく仕掛けを作ることが必要と考えてのことです」と土江氏は語る。
松江市のサテライトオフィスでストレス低減を実証! 仕事環境として地方都市の有効性を上げるポイントは情報セキュリティ
松江市の思惑はわかったとして、テレワークやワーケーションを含めたサテライトオフィスの推進で、参加者や参加企業にはメリットがあるのだろうか。そうした疑問に対して、1 つの答を与えてくれるのが「ワーキングヘルスケアプログラム MATSUE 」の成果だ。2019 年に始まったプログラムで、首都圏や大都市圏の企業で働く IT 業務従事者を対象に、松江市でテレワークをしたときに各種のバイタルデータを計測・分析を行い、ストレス値の低減を検証した。
「バイタルデータの中でも、唾液に含まれるアミラーゼの濃度がストレスとの関係があるという研究があります。プログラムの実証で唾液のアミラーゼを計測したところ、テレワークで松江市に来る前、帰った後に比べると、松江市滞在中は顕著にアミラーゼ濃度が下がることがわかりました。学術的にも優位性が認められる数値で、松江にいるとストレスが減ることが実証されたのです」(土江氏)。
1 週間といった短期間でも、松江市に来てサテライトオフィスで仕事をすると、その間のストレスが低減するというわけだ。コロナ禍以前の都市部では通勤のストレスが多く、満員電車を使った通勤の移動がないことが緊張状態から開放することに役立ったのではないかと分析する。少ないストレスで仕事をする環境として、地方都市は有効な場所である可能性が高まってきた。
2019 年度まで松江市の地域資源活用コーディネーター(地域おこし協力隊)を務めワーキング ヘルスケアプログラム MATSUE コンソーシアムの実証実験や設立に携わったワークアット株式会社 代表取締役社長 CEO の林 郁枝氏は取り組む次の一手をこう語る。「2019 年度の実証で松江に来るとストレスが下がることが証明できました。2020 年度以降のテーマとして、松江に来ることがビジネスにどのようなインパクトがあるのかを数値化しています。データの収集と検証が始まっていて、松江でのテレワークと生産性の間の傾向が見え始めています」。
ストレスが減少し、生産性が向上するといった指標を元に、テレワークや短期滞在のパッケージプランなどを提供できれば、新しいサービスが生み出せる可能性は高い。松江市は新しいチャレンジを続けることができるのだ。
こうしてテレワークや短期滞在を含めた広い意味でのサテライトオフィス利⽤促進への取り組みが進む中で、松江市は情報セキュリティに着目した。「お試しサテライトオフィスで多くの企業から参加があった中で、当初は『インターネットが通っているか』『早い回線があるか』がチェックポイントでしたが、『セキュリティはどうなっている︖』『つないでも⼤丈夫︖』『オンライン会議をできるクローズドな場所はある︖』といった要望が急速に増えてきました」と⼟江⽒。多様な要望に応えられるようなセキュリティを考えると、まだ受け⼊れ体制が⼗分ではなかったことに気付かされた。⼀⽅で、短期滞在での利⽤を考えると、受け⼊れ施設はホテルや旅館などにも拡⼤するだけに、情報セキュリティ対策の必要性を⼗分に理解してもらうのは容易ではないとも感じた。
サテライトオフィス施設の情報セキュリティへの対策や意識を高めた方法とは?
セキュリティ対策の必要性について施設側の理解を進めて実装する取り組みを進める中で、セキュア IoT プラットフォーム(SIOTP)協議会が 2019 年 7 月に公開した「共同利用型オフィス等で備えたいセキュリティ対策について」※ というガイドラインを見て、サテライトオフィスを受け入れる側の対策についての理解が深まった。
松江市では、お試しサテライトオフィスの利用経験もあり、SIOTP 協議会のメンバーでもあるサイバートラストに声をかけた。ガイドラインに沿った形でのレポートを作成するため、市内の受け入れ施設のセキュリティ診断を実施するためだった。対象は松江市の中心街のビジネスホテル、観光地の老舗旅館や温泉、ゲストハウスの 4 施設である。
自身も 2018 年に松江市に U ターンしてきた林氏は、「首都圏から移住すると、地域のセキュリティに対するリテラシーが低いことを感じることがありました。Wi-Fi さえあればサテライトオフィスを受け入れられるといった感覚です。首都圏から来た人がコワーキングスペースで安心して仕事をできる環境を整備する必要を感じていた中で、パートナーとしてサイバートラストと SIOTP 協議会が手を貸してくれたことはとても心強かったです」と語る。
セキュリティ診断をしてみたところ、どの施設も評価は「A~D」のうちの「D」だったと土江氏は苦笑する。「一番低い D 評価が松江の一般的な宿泊施設の現状だと改めて確認しました。しかし、点数は低いのですが、それがクリティカルな問題かというとそうでもないのです。パスワードが容易に類推できたり、掲示してあったりといった対応が簡単なことが多く、リスクは高いけれど改善が容易な課題が少なくありませんでした。サイバートラストに的確な診断をしてもらったことで、改善できるきっかけがつかめました」。
施設としては宿泊客の利便性を考えて Wi-Fi のパスワードを掲示してあるのだが、ビジネス利用が前提のサテライトオフィスではそれがリスクになる。昔の Wi-Fi のアクセスポイントが管理されずに稼働しているというようなケースもあった。課題が可視化できれば、対策は不可能ではない。また、ネットワーク関連は外部の電気工事業者などに丸投げしているケースもあるが、その委託先が IT やネットワークにどの程度の知識や経験があるかもわかりにくい。こうした業者のレベルの底上げもしていく必要がある。
セキュリティ診断を実施したことで、確実に松江市におけるサテライトオフィスや短期滞在受け入れ施設などのセキュリティ意識は高まりつつある。「4 拠点をモデル事業として、サイバートラストや SIOTP 協議会と一緒にどうしたら良くなっていくかを考えていきたいと思います。今後は、松江市でサテライトオフィスを受け入れるような施設はどこでも、一定のセキュリティレベルが担保されている状況を作り、『松江ってセキュリティの意識が高いよね』と感じてもらえるようにしたいですね」(土江氏)。
セキュリティが IT のバックボーンに根付くことで、松江市の価値が高まり、サテライトオフィスや短期滞在型の施設の利用といった新しい働き方で多くの人材が訪れ、松江のファンになっていく。そして、セキュリティ診断をできる地域のパートナーを育成していくことで、地域の活性化や雇用創出にもつながっていく。Ruby の街として IT とのつながりを深めていった松江に、安心安全な場所としてセキュリティというもう 1 つのブランドが加わる日は着々と近づいているようだ。
※「共同利用型オフィス等で備えたいセキュリティ 対策について」第 2 版 が 2021 年 3 月 17 日に公開されています。